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15.戦国武将の生き方に学ぶ科

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武田信玄から学ぶ

616日授業 テーマ:「中部日本最強武将・武田信玄」

 講師:清水 秀司(大阪府高齢者大学校  講師)

信玄のルーツを学ぶ

甲斐武田家は清和天皇に始まる清和源氏の血を引く名門の家です。源義光(新羅三郎)を祖とし、2代義清と3代清光が常陸・武田荘から甲斐・市河荘へ移り住んだ。
 4代信義が土着し武田を名乗った。信義は源頼朝とともに挙兵し、後に粛清される。信玄は、19代で戦国最強の武将となった。その信玄の座右には、新羅三郎から脈々と受け継がれてきた「御旗・楯無鎧」があった。当主が「御旗・楯無も御照覧あれ」と家宝の前で誓った事は、絶対に従わねばならなかった。

「人は城、人は石垣」と躑躅(つつじ)ケ崎館

 山梨県出身の清水先生から「武田節」の紹介があり、楽しく拝聴しました。この歌詞の中に信玄の言葉「人は城、人は石垣」があります。戦国時代、多くの名将たちは堅固な難攻不落の城を築くことに心血を注いだ。その中で信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」の言葉とおり、甲斐には堅固な城を築きませんでした。
  父信虎、信玄、勝頼の三代にわたって甲府・躑躅ケ崎館を一生の居館としました。これは「武士と農民を掌握してい ば攻められることがなく、堅固な城を築く必要はない」との考えだった。事実、家臣・領民から絶大な信頼を得て、「甲斐の国に敵兵を一兵たりとも入れないぞ」という、信玄の自信の象徴でもあったのだろう。

  武田信玄①  武田信玄②

甲府駅から北へ約2kmの所に躑躅()ケ崎館の跡に武田神社があります。神社を囲むように家臣の屋敷跡の碑が沢山見られ神社前に「人は城・・・」の()が迎えてくれます。

    武田信玄③ 

武田神社境内に宝物殿があり、刀、鎧などが展示されている。撮影禁止だが、暗がりに異様な光を放つ武田信玄の像だけは撮影OKになっていた。 


武田家の滅びの道

 信玄は西上作戦で野田城攻略の途上、53歳で病死した(鉄砲で暗殺説もある)。最強を誇った信玄も寿命には勝てなかった。跡目相続で内部分裂があったが、四男の武田勝頼が20代当主を継いだ。鉄壁を誇った武田騎馬軍団も長篠合戦で大敗し、衰退から滅亡への道を進む。真田昌幸を普請奉行にして韮崎に堅固な新府城を築いたが、重臣の謀反など人の石垣は崩れ、13代武田信満が自害した同じ天目山(山梨県甲州市)へ逃げ、妻子と共に天目山の露と消えた。
 後に徳川家康は勝頼主従の菩提を弔う寺を建立し領民を懐柔した。信玄の子孫は江戸時代も微かに残ったが、信玄が築いた人の遺産(武士、金工夫など)の大部分は家康に引き継がれていった。
 戦国時代は戦に勝ち残る事が大切だが、その為にも人心を掌握して統率する力が一番大切だと学んだ。


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