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15.戦国武将の生き方に学ぶ科

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朝倉義景から学ぶ

7月21日授業 テーマ:「北陸の勇の滅亡 朝倉義景」

講師:加藤 正彦 (大阪女学院大学 特任教授)

一乗谷の朝倉氏と城下町

1471(文明3年)5月、越前守護・斯波の守護代・朝倉孝景(1428-77)が応仁・文明の乱の
時、西軍から東軍に寝返って一乗谷を本拠地として次第に実力で越前一国を押領しました。

まさに孝景は下克上の典型です、見方をかえれば、越前一国に支配権を打ち立てるには、
古い勢力に対してなんら、はばかることなく打破していく彼の合理性も必要だったのではあり
ませんか、それについて朝倉氏の分国法の一種ともみられる「朝倉孝景条々」または「朝倉
敏景十七箇所条」は、伝統を否定する彼の合理主義があらわれている。「朝倉氏以外は城
を構えてはならない。領地を多く持つ家臣はみんな一乗谷に引越し、代官だけを現地におく
こと」と定めている。家臣を領地から引き離し、城下町に集住させることによって、彼らをより
強く統制しようとした事が伺える。

 以後、 二代氏景・三代貞景・四代孝景・五代義景、織田信長に滅ぼされる迄100余年、
一乗谷は「北陸の小京都」と言われるほどの賑わいを誇るのです。 
  朝倉a   
 
「朝倉始末記」は、一向一揆や信長と朝倉氏との合戦をどのように描いているのか、加賀国
(現石川県)の一向一騎門徒は1488(長亭2年)に守護の富樫政親を攻め滅ぼし、やがて
かれらは1506(永正3年)にはほぼ30万の大軍でもって越前に侵入します。孝景以来5代、
数十年にわたる一向一揆との戦いに、費やされたといえます。

    

    朝倉b



五代・義景
は、1548(天文17年)に父の朝倉孝景が急死し、16歳で家督を継承した。1552
(天文21年)に室町幕府将軍足利義輝の「義」の一字を賜り、義景と改めている。
義景は、
織田信長に対抗するため近江への出兵を繰り返し、1573(天正元年)の刀根坂戦いに大敗
すると、一乗谷に撤退し、最終的に大野郡の六坊賢松寺に逃れた。しかし、織田軍に通じた
大野郡司である従兄弟の朝倉景鏡の襲撃に遭い、最後は従弟の朝倉景鏡裏切られ、辞世
の句を書いて自害する。

戦国大名朝倉氏はついに滅亡、約一世紀に渉って栄えた一乗谷の町は戦火により焼土と
化した。

辞世の句・漢文概意
四十年の七転八倒の人生はすべて無の中である。無こそ四大本空へつながるものである。


   

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