15.戦国武将の生き方に学ぶ科

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校外学習 (大阪城へ)

2月23日午後  校外学習  (大阪城へ)

コース  西の丸庭園前 ➡ 石山本願寺跡 ➡ 豊国神社 ➡ 桜門 ➡ 天守閣
        ➡ 秀頼・淀殿最期の地 ➡ 極楽橋 ➡ 梅林

大坂城①   大阪城②

午後のクラスミーティングは、事前に計画していた校外学習。西の丸庭園前に集合して、
歴史談議に花を咲かせながら、大阪城を巡る。即興で何人かの人が「ガイド」に変身!
話は、やはり大坂冬の陣・夏の陣に! 実のある校外学習になりました。
最後は、梅の花が7分咲きの梅林へ!


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島津義久・義弘から学ぶ

2月23日授業テーマ:「九州の支配者はその時?」 島津義久・義弘

講師 : 清水秀司 (大阪府高齢者大学校 講師)

島津義久 清水先生  


 九州薩摩を本拠地として、初代島津忠久が鎌倉時代に活躍し、南九州の守護職から、戦国大名へと発展を遂げる。
特に島津中興の祖、伊作家当主 島津忠良が
12代忠治、13代忠隆の若年病死で政権基盤が弱く家督を狙う島津実久との抗争が続いたが終止符を打ち嫡男貴久が15代守護の座に就くことが出来た。

 16代義久が37歳で当主となり薩摩の国を統一、44歳で豊後国の大友家を滅亡寸前まで追い詰め九州全土征服するまでになった。一時秀吉の惣無事令を守らず、豊臣秀長の大軍と戦うも島津軍は薩摩まで撤退、木食応其の仲介で降伏をするが、薩摩・大隅・日向等は安堵された。
島津義弘pp-b 

関ヶ原の戦いと戦後処理でも西軍についたにもかかわらず、講和交渉を上手く乗り切り結果的に島津家は改易を免れ本領安堵の沙汰がくだる。

鎌倉時代から現在に至るまでの難局を幾度も乗り越えたのも、島津家には有能な人物が多く排出され幕末最後には藩主12代、島津家当主29代目となっております。


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社会への参加活動

2月16日 テーマ :「社会への参加活動」 班ごとに実施

1班-2班 
★ 一口レポートより 【各班2名づつ】
 ●天候に恵まれ、素敵なアウトドアを楽しみました。CD 参加有難うございました。【1班】
 ●暖かい冬空の下、楽しいパークゴルフでした。【1班】
 ●御香宮の静寂な雰囲気にしばし、欲世を忘れました。【2班】
 ●伏見の空気は最高! 坂本君に想いを寄せつつ...。鳥料理を味わう。【2班】

3班-4班 
★ 一口レポートより 【各班2名づつ】
 ●懐かしい道具がありました。館内は外国人(アジア系)の多さにビックリしました。【3班】
 ●時代を飛び越えて懐かしさがこみ上げてきた。【3班】
 ●落語、初めて生で聞き楽しく過ごせた。天満宮にも参拝、梅が咲き綺麗でした。【4班】
 ●繁昌亭の混み具合には驚く。本当に繁昌している。【4班】


5班-6班 
★ 一口レポートより 【各班2名づつ】
 
●道明寺で梅を見ながら古き時代を思い、夢なかばで散った人々を思う。【5班】
 ●高台の道明寺古戦場跡に立つと、素晴らしい眺めに、感激もひとしおです。【5班】
 ●澤田先生の歓待を受け、とても貴重な資料等を見ることが出来ました。【6班】
 ●資料館は想像以上に良かった。是非、他の班の方も行くとよいと思う。【6班】


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伊達政宗から学ぶ

2月9日 授業 テーマ:「奥州一の大名からの狙いとは?」 伊達政宗

講師:清水 秀司 (大阪府高齢者大学校 講師)


派手好きな「伊達男」・父を殺し、母に毒殺されそうになり弟を殺した冷酷無常な男・
突拍子もないことをする男・・・・・といろいろいわれている伊達政宗。

 戦国時代の終わりに登場し、落ち着いていく江戸時代にどのような生涯を送ったのか
とても興味を惹かれる戦国武将です。

伊達政宗A 

1567年誕生。18歳で伊達家当主となり、戦いに明け暮れる政宗。当時はすでに秀吉が
天下を治め、家康の力も大きくなっていた。が、秀吉の命にも背き戦い続けていたのだが。
小田原参陣時、死装束で秀吉に会ったり、金箔十字架を担いで京都に入るなどするが不思
議と秀吉に許されたり、家康に庇ってもらったりする政宗。年が離れすぎているから、子ども
や孫のように思われたのだろうか。それでも奥州の覇者に昇りつめていった政宗。 

 関ケ原の戦いでは遠く離れていたため情勢がつかめず・・・大坂の陣では東軍に。

 その後は、仙台藩主になり仙台藩の発展に尽くしたようだ。
伊達政宗B 
 戦国時代の末期に登場して戦場を駆け、秀吉・家康といった大勢力に飲み込まれ
つつも自分の勢力を拡大しようとあがき、晩年には平和な時代の領主として実績を
残した政宗は最後の戦国武将として偉大だったのだろう。
5月人形で伊達政宗が好まれるのも頷ける。

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徳川家康から学ぶ

2月2日授業 テーマ:「今川・織田の人質から天下人へ」 徳川家康

講師:川元 奈々(大阪市立大学都市研究センター 研究員)

家康の人物像
徳川家康といえば戦国時代を終結させ徳川250年以上の泰平の世を築いた大英傑であるのは周知のことである。勝者であるのに家康像は陰湿、策謀、老獪など「狸親父」として定着してきた。信長、秀吉に比べなぜ不人気なのか?私達は「歴史は勝者によって創られる」ことを学んできた。徳川幕府を倒した勝者「明治新政府」が、賊軍の祖・家康を悪者に仕立てて徳川時代を攻撃した結果だろう。
 昭和になって徳川時代の研究も進展したが、NHK大河ドラマでは21作目でやっと主人公として注目された。現代の一般的家康像は「忍耐の人」、「狸親父」、総合的人気は劣るが「理想のリーダー像」として根強い人気がある。

徳川家康① 

覆った通説

最近の研究により、今までの通説が事実でないということを教えられた。

①家康遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくがごとし」は幕末に作成された偽作。

②徳川家康三方ヶ原戦役画像は、単なる自画像。家康が「自分への戒めとして書かせた」とされているが、明治に徳川美術館長が想像して語ったことが発端。

③家康の死因は食中毒でなく胃ガン。

④信長の命令で最愛の嫡男・信康を切腹させたが、実は家康と信康の仲違いが原因?

三方ヶ原自画像A - コピー   DSC05327大河A - コピー



家康の実像

・苦労の人:幼い頃に人質として織田・今川の元を転々し辛酸を味わった。

・慎重な人:豊臣政権下では秀吉死後も時局を見極め秀頼に接した。

・多趣味人:読書家で学問好き、本の出版も行う。本草学(ほんぞうがく)を熟知。

・強運な人:「三大危機」(三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、神君伊賀越え)を乗り越え、秀吉や中核の豊臣大名より長生きした。

  実像の家康は人々から愛され、支持を受け、戦国の世を生き抜き、天下泰平の願いを成し遂げた偉大な戦国武将であった。


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